【らんまん】待合茶屋「山桃」は実在!モデルの料亭どこでその後どうなった?【寿恵子の店】

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朝ドラらんまん寿恵子が経営!待合茶屋「ヤマモモ」渋谷に実在した!モデルの店はその後どうなる?
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朝ドラ「らんまん」も残すところあと1ヶ月。

仲居として働く寿恵子でしたが、叔母の勧めで、自分で商売を始める流れとなりそうですね!

その名も、待合茶屋「山桃(やまもも)」。

そこで今回は、

  • 寿恵子の店「山桃」は実在した?
  • モデルの料亭はどこ?
  • モデルの店はその後どうなった?

について深掘りしていきます!

目次
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【らんまん】待合茶屋「山桃」は実在!モデルは「いまむら」

ドラマ内での流れを振り返りながら、寿恵子が開業する店についてみていきましょう!

叔母が寿恵子に商売を勧める

叔母みえの料亭で働きはじめた寿恵子は、その接客のセンスで常連客の心を鷲掴みにしていきました。

そんな寿恵子に、叔母みえ・叔父の太輔は、「渋谷で店を持ってみないか?」と提案します。

当時の渋谷は、ほとんど開発されていない土地でしたが、今後発展していくことを見込んでいたのです。

というのも、「弘法湯(こうぼうゆ)」という温泉が湧き出たことで、大山詣や富士詣の行き帰りに体を清める温あみ客が増え始めていました。

さらに陸軍の練兵場ができるため、軍関係者等を客に商売ができるのではないかと考えたわけです!

寿恵子の店は待合茶屋「山桃」

2023年9月4日〜第23週のサブタイトルは「ヤマモモ」。

その名の通り、寿恵子は、渋谷の地で、

待合茶屋「山桃」

を開業させていく流れとなります!

放送前のため、なぜ店の名前が「山桃」なのかは、現時点で明らかになっていません。

ただ、高知の「ヤマモモの甘露煮」に寿恵子が感動するシーンがヒントになっているかもしれません。

なお、「待合茶屋」とは、叔母の「料亭」とは若干意味が異なるんです。

待合茶屋では、料理を店で調理せず、仕出し屋さんの料理を客に提供する形です。

主な収益は、席料や仕出し料理の手数料収入。

とはいえ、料亭「巳佐登」のように、要人たちの会合や芸者を呼ぶ宴会に使われる場所という点では同じです。

そのため、寿恵子が相手にする客層はほぼ同じということになりますね!

「山桃」のモデルは待合「いまむら」

実はこの寿恵子の開業ストーリーは、

本当の話でした!

実際に、リアル寿恵子(牧野寿衛)は、

渋谷の荒木山(現在:渋谷区円山町)に店を開業しました。

その店の名は、「いまむら」

実家の別姓にちなんで名付けたそうです。

リアル寿恵子は、資本金3円で小さな一軒家を購入し、待合ビジネスに乗り出しました。

自叙伝によれば、牧野富太郎博士はかなり驚いたという開業秘話があります。

しかし、荒木山が「花街」として発展し始めていたこともあり、「英断だ」と受け止めたそうです。

研究や家計を支えるためとは言え、寿恵子のバイタリティがすごい!

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【らんまん】モデルの寿恵子の店「いまむら」の業績やその後は?

その後、リアル寿恵子が開いた待合「いまむら」はどうなったのでしょうか?

「いまむら」の経営は順調だったが・・・

リアル寿恵子が開いた待合「いまむら」。

人柄や接客で評判となり、

経営は順調だったそうです!

「いまむら」のある渋谷の荒木山は、

大正時代初期には「郊外の花街」としてかなり賑わっていました。

大正時代後期には100軒近くの待合が並び、

芸妓さんも400人以上いたんだとか!

ただ、待合を水商売だと思う人も少なくありません。

そのため、大学の牧野博士に影響が出ないよう、リアル寿恵子は別居して商売をしていたのです。

しかし、「妻が待合をやっているなんてけしからん」などと、大学内での牧野博士への風当たりは強かったそうです。

そんな中、当時の学部長が牧野家の事情を理解してくれ、非職などの大事にはならなかったんだとか。

しかし、その後、

「いまむら」は閉店に追い込まれます。

というのも、1923年に「関東大震災」が発生

渋谷に大きな被害はなかったものの、景気悪化で貸し倒れが続き・・・

経営を長くは続けられなかったそうです。

「いまむら」売却資金で家をプレゼント

閉店した待合「いまむら」を売却することにしたリアル寿恵子。

そのお金で、初めて自分たちの家を建てることを決めます。

リアル寿恵子は、

家を建て、標本館と植物園を作りましょう

と牧野博士に提案するのです。

本当に、どこまで家族想いなのでしょうか・・・。

場所は、移住者が増えていた「武蔵野エリア」(現在の練馬区東大泉)。

長年資金繰りで苦しんできた牧野家でしたが、

1926年に「念願のマイホーム」を手に入れることができたわけです。

そして、この家が、牧野夫婦の終の住処になります。

そんな秘話もあって建てられたこの家は、現在も「練馬区立牧野記念庭園」として残されています。

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