朝ドラ「ブギウギ」は東京編へ。
ヒロインの福来スズ子と秋山美月は、東京の男女混同劇団「梅丸楽劇団(UGD)」にスカウトされました。
このUGD(梅丸楽劇団)にモデルは実在しているのでしょうか?
ブギウギ「梅丸楽劇団(UGD)」が東京でスタート
戦後のスター歌手・笠置シヅ子氏をモデルにした「ブギウギ」。
第5週からは、舞台が東京へ。
主人公・スズ子の才能を引き出す重要なキーパーソンである「羽鳥善一(草彅剛)」も登場してきます。
#羽鳥先生(草彅剛)、ズキズキワクワクしていますね!
— 朝ドラ「ブギウギ」公式 (@asadora_bk_nhk) November 5, 2023
演出家の松永さんの目にとまったスズちゃんの歌、羽鳥先生はどう思うでしょう…
スズちゃんと羽鳥先生が出会うのは明日でしょうか?ドキドキワクワク!#ブギウギ pic.twitter.com/yrd88xCvx4
そんな2人が出会うきっかけとなるのが、
梅丸楽劇団=UGD
です。
スズ子が所属していたUSK(梅丸少女歌劇団)は、少女のみで編成されていたグループでした。
一方で、東京で新しく旗揚げされたこの劇団は、「男女混合」が売りのレビュー団。
海外風のオシャレで大人向けの劇団とするためにふさわしい演出家や作曲家も集められ、スタートしていくのでした。
ブギウギ「梅丸楽劇団(UGD)」のモデルは実在する?
このブギウギの「梅丸楽劇団(UGD)」にはモデルが実在しているのか気になりますね。
調査したところ、このモデルは、
松竹楽劇団(SGD)
という実在する劇団です。
1930年代、母体である「松竹」は、少女歌劇の他に「大人向けのレビューを創設したい」と考えていました。
男子禁制のライバル「宝塚」と差別化を図り、男性を含む劇団を創設することにしたのです。
主な団員は、東西レビュー団から選ばれ、大阪からは「笠置シヅ子(当時23歳)」「秋月恵美子」がスカウトされて上京することになったのでした。
松竹は、このSGD創設にかなり力を入れており、莫大な資金を投じていました。
音楽や演出にも一流のメンバーを揃え、当時のマスコミもこの劇団の旗揚げを華々しく報じていたそうです。
このメンバーの中に、のちに笠置シヅ子の歌唱力を引き出す作曲家・服部良一(副指揮者)いました。
服部は、帝国劇場で初めて出会った笠置シヅ子の印象をこのように語っています。
シヅ子の動きの派手さ・迫力・スイング感に圧倒され「これが世間で騒がれたいた歌姫かと納得した」と。
SGDでの出会いは、昭和歌謡史に残る名コンビ誕生の幕開けとなったのです。
3センチのつけまつ毛も、服部先生のお気に入りだったんだって。
ブギウギ「梅丸楽劇団(UGD)」のモデルの現在は?
このように、そうそうたるメンバーを揃えて始まった「松竹楽劇団(SGD)」。
残念ながら、その活動期間はわずか3年ほどで解散となっています。
一体、何があったのでしょうか?
1938年の帝国劇場での旗揚げ公演から1年。
笠置シヅ子は「スイングの女王」として人気を博していき、1939年にはコロムビア専属歌手となります。
その後、ライバル「東宝」への移籍トラブルなどもありましたが、服部の尽力もあり、松竹に留まることに。
そんな中、時代は戦時体制へと向かい、さまざまな取締や制約が出てきたのです。
1940年には、内務省が芸能人の外国名を禁止したり、海外風の音楽の取り締まりが強化されていきました。
SGDは、モダンでアメリカナイズされた男女混合レビューが売り物。
そのため、取り締まりの対象となり、規模を縮小せざるを得ない事態へ・・・。
さらには、笠置シヅ子も警察に呼び出され、「つけまつ毛を取れ」や「激しく動くな」などと注意を受けていたそうです。
そして、1941年1月、帝劇「桃太郎譚」を最後に、とうとうSGDは解散となります。
時代の逆風に耐えきれず、わずか3年での解散となったのです。
しかし、笠置シヅ子にとっては歌手としての道が開けた人生の転機とも言える3年だったのでした。
「ラッパと娘」「センチメンタルダイナ」などの代表曲が生まれたよ。
まとめ
今回は、ブギウギの「UGD=梅丸楽劇団」のモデルが実在するのか?について取り上げました。
調査したところ、戦争の影響で、わずか3年で解散していたことがわかりました。
それでも、笠置シヅ子にとっては、歌手の道が開けた濃厚な3年だったのではないかと思います。
ドラマではどのように描かれていくのか、楽しみですね!
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